さきの 「ひらがなせいかつ への いざない」 に たいする しゅんぺーさん の コメント で、
あなたの文章は非常に簡潔に平易に書かれておりますので、ひらがなで読むことはさほど難しくありませんと かかれている ことは とても うれしい。
ぼくが ここに かいている ぶんしょうは、すべて ぼくが かんがえている ていどの ないよう なので、そもそも むずかしい ことでは ないし、その いけんを せいかくに つたえる ためには、とくに むずかしい たんごを ひつようと してない というのは じじつなの だけれど、それでも、ぼくは ちゅういして たんごを えらんで かいている。
つまり、なんどか よみなおして、なるべく かんたんな ぶんに なるように かきなおしている。どうおんいぎごが まぎれていないか ちゅうい しているし、かんじを みないと ぼくじしん よく いみが わからない たんごは すべて かきなおしている。まあ、スイコウ くらいは かいても いいけれど、あえて かかないように している。
つまり、みなれていない から すごく よみにくい というのは たしかに そう だけれど(わ)、がんばって よんでみても よく わからない、というような ことには ならないよう、けっこう きを つけています。
じつは「ひらがなせいかつ」には、ぶんしょうを もっと たんじゅんに かくべき ではないか、という いと も あります。
しかし、むずかしい ないようの はなしは こんな かんたんには いかないの かも しれない。
さきの コメントで いんよう されていた 脇圭平 の ほんやくぶんは、たしかに ひらがなで よむと、よく いみが わからないし、たとえば 江島健太郎 の Kenn's Clairvoyance の ような ブログは ひらがな だけで よんだら、さっぱり りかい できないと おもわれる。でも、これらの ぶんしょうは そもそも とても むずかしい ぶんしょうだし、いくら かんじで かいて あっても よく いみが わからないと おもう。ゎ
まあ、こういう ぶんしょうを すべて ひらがな だけで かくべきだ、とは ぼくも おもわない。ラテンごが よめる ひと ようの ぶんしょうは それ そうおうの ルールが あって しかるべき だと おもうし。
でも、むずかしい ないようを、かならずしも むずかしく かく ひつようは ないのでは ないか。
せんもんようごの ほんやくには いろいろと ルールが ある ので、たんじゅんに ぜんぶ ひらがなで かけば いい という もんだいには ならない けれど、たとえば 山形浩生の ほんやく など を よむにつけ、わかりやすく ほんやくする という ほうほうは あるのだなあ、と おもう。ほんやく いがい でも、かれの ぶんしょうは ほとんど ひらがな だけに しても、よめる きが する。とても シンプルで よみやすいし。
さて、平仮名を ひらがなと かいてしまっては ことばの ほんらいの いみ、ゆらいが わからない、という してきは まったく そのとおりだと おもいます。でも、だれも 「左様なら」とか「有り難う」なんて もう かきませんし、そう かくことを しらない ひとも すでに おおい と おもう。
それを なげく ひとも いるかも しれない けれど、これは こうとうきょういく、もしくは きょうようてきな はなしだと ぼくは おもう。ぼくらは とっくに こぶんが よめなく なっている けれど、なんの もんだいも ない。
かりに せいかつを ひらがな だけで いとなむように なっても、われわれが いま つかっている ていどの かんじの ちしきが インテリゲンチャには ひつようだと おもうし、それは かわらないのだろうと おもう。
でも、それを すべての ひとに しいるのは むだ じゃない だろうか。ふつうの ひとに とっては、かんじは あるていど よめさえ すれば いいだけの ことじゃないの だろうか。
うーん、どうおんいぎごの はなしも かこうかと おもったけれど、ながくなったので またに します。ゎ
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