2009年5月10日日曜日

しごとだから なんなのか


せんじつの JTPA の カンファレンス でも はなしに のぼったことだけれど、アメリカの はたらきかた と くらべて、にほんの はたらきかたは いじょうに せいしんろんてき で、とにかく むりにでも どりょくで かいけつ しようと する けいこうがあり、それでいて きゅうよも すくなくて やってられない、という いけんが ある。ぼくも そう おもう。

にほんの おおてメーカ きんむで ばしゃうまの ように はたらいて さくしゅされている エンジニアたちは、おなじ レベルの しごとを ふつうに ていじで やって、それでいて ばいほどの きゅうりょうを もらっている こっちの エンジニアの げんじつを しったほうが いい。

でも、こっちだと くじごじ で はたらけるとか、そんなことは じつは たいした もんだい じゃあない。

それに、たとえば スタートアップで ようきゅうされる しごとりょう というのは、アメリカ でも にほんでも まったく ちがいがない。

ぼくは、きぎょうするために アメリカに きたけれど、その スタートアップ では、まいにち 12じ すぎまで はたらいていたし、てつやも しょっちゅうしたし、そんな せいかつを 4ねんくらい つづけた。じぶんで はじめた かいしゃだから というもの あるけれど、いっしょに はたらいてた れんちゅうも みんな、しぬほど はたらいていたし、そういう じきというか タイミング というのは あるし、スタートアップ なんて、そんなもんだ。

ちなみに、りこんされなかったのは、ひとえに 老婆が ぼくを できあい しているからだ という りかいだけれど、あのときに ぼくを みすてないで いてくれたことの おんは いっしょうかけて かえしたいと おもっている。って、それは どうでもいいか。

というわけで、しごとの りょうは、アメリカか にほんか という もんだいではない。しごとに よる。だから、こっちのほうが いいよ、というのは、すくない しごとで もっと かせるげるとか、そういうことじゃない。

もんだいは、「しごと」の ゆうせんじゅんい だ。

にほんでは「しごとだから」という じゅもんが、あらゆることの めんざいふ として つかわれている。「しごと」が すべてに ゆうせんする のだ。

こどもとの やくそくだって、ゆうじんとの やくそくだって「しごとだから」といえば、なんでも ほごに できる。しごといがいの やくそくは ぜんぶ だ。

じゅぎょうさんかん だって、しごとが はいったら いけなくても ぜんぜん しかたがないし、さいばんいんに しょうかんされても、サーバ かんりしてたら しかたがない。

なんで こんなに しごとが いちばん だいじなんだろう。おかしいと きづかないのかね。きづいてるけど しかたがないのかね。それは きづいてないってことと なにがちがうのかね。

かぞく>ともだち>しゅみ>しごと、くらいの じゅんばんが バランス とれてると ぼくは おもうし、どうい してくれる ひとも おおいと おもうけれど、にほんでは、しごと>>>こえられない かべ>>>しゅみ>ともだち>>かぞく、くらい じゃないだろうか。

ほんと、しごとだから、なんなんだろう。

へいじつの ひるすぎに むすめの ようちえん の Dad's Day に さんかすることが、「しごとだから」という いみふめいな りゆうで できないなんて、ほんとうに くだらないし、そんな しゃかいは ほろんでよし。

って おもわないのかな。おもわないから こうなんだろうね。

2009年5月7日木曜日

よみにくい のは だれか


ひらがな だけの ぶんしょうは、よみにくすぎて たまらない。さいきん、よく いわれる。

ひらがなせいかつ を はじめてから だいぶ たっていて かなり めが なれたし、しんりてきな ていこうも まったく なくなった ぼく ですら、よみやすさの ひかくをすれば、あっとうてきに かなかんじまじりぶん (いか、よくつかうのに ながくて よみにくいので、かかまぶん と よぶことにします。わわ) の ほうが よみやすいと かんじるのだから、さいしょから うけいれる きが まったくない ひとたちが、そう いいたくなる きもちは 120% りかいできる。

すこし あたまの おかしい ぼくだけが こういう はためいわくな ことを かってに やるのなら まだしも、なにか しんえんな いとがあるに ちがいないと かんちがいした おひとよしたちが こんなくだらないことを まねしはじめては たまらないと、ないしん やきもきしている ひとも いるかも しれない。

でも、ひらがな だけで わかちがき されている こういう ぶんしょうを よめない ひとと、ふつうの かかまぶんを よめない ひとと では、どうかんがえても こうしゃの ほうが たくさん いると おもうので、ひらがなだけだと よみにくいと いっている ひとの りくつは、いわゆる 「強者の論理」じゃないのだろうか、という ぎねんが ぼくには ぬぐえない。

ぼくは つごうのいい ぎぜんしゃ なので、きづかないうちに おまえは じゃくしゃを むししているのだと、ひと(=じぶん)に いわれたら、ちょっと きずつく。しってて やっていることなら、いくら ひと(=じぶん)に してきされても「ええ そうですが なにか」と ひらきなおれる のだ けれど。

ぼくは これまで、かんじが よめない ばかは なにも よまなければいいと おもってきた。わいせつ という たんごを わざわざ ひらがなで かくなんて、ばかも やすみやすみ いえ、と おもってきた。じぶんが おおくの かんじを すらすら よめる からだろう、もんだいいしきは ほとんど なかったし、なんなら かんじを つかうべき りゆうを たくさん ひねりだして、かんじぼくめつうんどうの ねを たやしておくか、くらいの かんかく だった。

でも、ぼくが かいている ことを、こどもたちが きょうみぶかそうに ながめつつも ほとんど よめない という げんじつを みて、なんのために よめなくする ひつようが あるのだろうか、と おもうようになった。ひらがなで かけば、すくなくとも よめるし、よもうとするのに。

おとなというのは ほんとうは じぶんかってで とんでもなく ばかだ、ということが ばれてしまっては たいへんだから、あえて よませないために そうしよう、というのならば すじは とおる。でも、そんな いとは ないのだとしたら、ぜんぶ ひらがなで かいてあげて、だれでも よめるように したらいいんじゃないのだろうか。

もちろん ひらがなで かかれていれば こどもでも すべて りかいできる ということには ならない。この ブログに ぼくが かいている ていどの ないよう ですら、ぼくの こどもたちが りかい できるように なるまでには、まだまだ なんねんも かかる。

でも、よめさえすれば よもうと するかも しれないし(じっさい、よもうとして、「ぶんしょう」って、なあに?みたいに たくさん きいてくる)、よめさえすれば、じしょも ひける。

かかまぶんを よむためには、かんわじてん(もしくは けいさんき) が ひつよう だが、かんわじてんを ひくのは、おとなでも かなり めんどうくさいし、そこまで して よまないと いけないと いわれたら、だれも よまない。にほんを けんきゅうしている ひとや、ジャパンで くらしてみようと おもうくらいの すいきょう なら いざしらず。

また、ふつうの かかまぶんは、めが みえない ひとや、おとが きこえない ひとには、とても むずかしい。てんじは きほんてきに かな しか ないし、つかっている かんじを せつめいを しながらじゃないと いみが わからない ような どうおんいぎごが たくさんつかわれている ぶんしょうは、おとだけ きいても りかいするのは とても むずかしい。

ひらがな だけで ぶんしょうを かくためには、つかうことばを えらぶ ひつようが あるけれど、そうすることで、てんじ にしても テキストスピーチ にしても、そういうものの ほじょが ひつような ひとたちにも あつかいやすい ぶんしょうになるし、こどもや ガイジン にも よみやすい ぶんしょうになる。

こじんこじんが そんな ことを するよりも、すべて けいさんきで じどうてきに わかちがきと かなへんかん できるようにしたほうが、すでに そんざいしている ぼうだいな ぶんしょを あつかえる ようになるのだから、どりょくするなら そっちのほうが こうりつが いい、という いけんは わかる。そのどりょくは つづけるべき だと おもうし、NLP (しぜんげんごしょり)の けんきゅうしゃの どりょくは むだだとは おもわない。

でも、いま かんたんに できることを、なにゆえ なんねんも さきに できたらいいな、という ひつようがあるのか わからない。

かかまぶんを すらすら よめない (げんざいは)ごくいちぶの (だけれど、しょうらいは だいぶぶんに なる かのうせいが ある)ひとたちの しんぱい なんて してられない。すなおに そう いいきれる ひとたちには、ぼくが どういう もんだいいしきの もちかたを しているかの せつめいは むずかしいけれど、かかまぶんを つかうべき りゆう として、たんに よみにくいから、というのは まったく せっとくりょくが ない。

おうだんほどうの しんごうが かわったときに おおきな おとで おんがくを ならすのは、しょうじき いって、うるさい だけだから やめてほしい。そういっているのと なにが ちがうのだろうか。

2009年5月3日日曜日

ひらがなでは いみが わからない


さきの 「ひらがなせいかつ への いざない」 に たいする しゅんぺーさん の コメント で、

あなたの文章は非常に簡潔に平易に書かれておりますので、ひらがなで読むことはさほど難しくありません
と かかれている ことは とても うれしい。

ぼくが ここに かいている ぶんしょうは、すべて ぼくが かんがえている ていどの ないよう なので、そもそも むずかしい ことでは ないし、その いけんを せいかくに つたえる ためには、とくに むずかしい たんごを ひつようと してない というのは じじつなの だけれど、それでも、ぼくは ちゅういして たんごを えらんで かいている。

つまり、なんどか よみなおして、なるべく かんたんな ぶんに なるように かきなおしている。どうおんいぎごが まぎれていないか ちゅうい しているし、かんじを みないと ぼくじしん よく いみが わからない たんごは すべて かきなおしている。まあ、スイコウ くらいは かいても いいけれど、あえて かかないように している。

つまり、みなれていない から すごく よみにくい というのは たしかに そう だけれど(わ)、がんばって よんでみても よく わからない、というような ことには ならないよう、けっこう きを つけています。

じつは「ひらがなせいかつ」には、ぶんしょうを もっと たんじゅんに かくべき ではないか、という いと も あります。

しかし、むずかしい ないようの はなしは こんな かんたんには いかないの かも しれない。

さきの コメントで いんよう されていた 脇圭平 の ほんやくぶんは、たしかに ひらがなで よむと、よく いみが わからないし、たとえば 江島健太郎 の Kenn's Clairvoyance の ような ブログは ひらがな だけで よんだら、さっぱり りかい できないと おもわれる。でも、これらの ぶんしょうは そもそも とても むずかしい ぶんしょうだし、いくら かんじで かいて あっても よく いみが わからないと おもう。ゎ

まあ、こういう ぶんしょうを すべて ひらがな だけで かくべきだ、とは ぼくも おもわない。ラテンごが よめる ひと ようの ぶんしょうは それ そうおうの ルールが あって しかるべき だと おもうし。

でも、むずかしい ないようを、かならずしも むずかしく かく ひつようは ないのでは ないか。

せんもんようごの ほんやくには いろいろと ルールが ある ので、たんじゅんに ぜんぶ ひらがなで かけば いい という もんだいには ならない けれど、たとえば 山形浩生の ほんやく など を よむにつけ、わかりやすく ほんやくする という ほうほうは あるのだなあ、と おもう。ほんやく いがい でも、かれの ぶんしょうは ほとんど ひらがな だけに しても、よめる きが する。とても シンプルで よみやすいし。

さて、平仮名を ひらがなと かいてしまっては ことばの ほんらいの いみ、ゆらいが わからない、という してきは まったく そのとおりだと おもいます。でも、だれも 「左様なら」とか「有り難う」なんて もう かきませんし、そう かくことを しらない ひとも すでに おおい と おもう。

それを なげく ひとも いるかも しれない けれど、これは こうとうきょういく、もしくは きょうようてきな はなしだと ぼくは おもう。ぼくらは とっくに こぶんが よめなく なっている けれど、なんの もんだいも ない。

かりに せいかつを ひらがな だけで いとなむように なっても、われわれが いま つかっている ていどの かんじの ちしきが インテリゲンチャには ひつようだと おもうし、それは かわらないのだろうと おもう。

でも、それを すべての ひとに しいるのは むだ じゃない だろうか。ふつうの ひとに とっては、かんじは あるていど よめさえ すれば いいだけの ことじゃないの だろうか。

うーん、どうおんいぎごの はなしも かこうかと おもったけれど、ながくなったので またに します。ゎ

にげるが かち

にほんが たちなおれるか どうかは ぼくには よく わからない。

わたなべちかの れいの エントリ を よんで、「でも、アメリカ だって、アメリカ だって、アメリカ だって、アメリカ だって」みたいな はんのうを している ようちな ひとたちに いいたいことも とくに ない。 

でも、にほんは とても すみにくい しゃかい だと ぼくは おもっていたし、いまも おもっているので、そう おもう ひとたちや かんじている ひとたちは、せっきょくてきに ガイコクに にげてみる ことを すすめたい。

うんよく にほんで うまれたの だから、てんしょくする くらいの きがるさで、きがるに ガイコク ぐらしを してみると いいと おもう。ただの ひっこし よりかは しきいが たかいかも しれない けれど、いちど やってみたら、そのくらいの しきいしか ないことが わかる。いなか から とかいに ひっこした ひとなら わかると おもうけれど、おなじくらいの はなしだと おもう。

さて、にほんが すみにくいと ぼくが おもっている りゆうは いろいろ あるけれど、じじと あわせて ひとつ かくと、ぼくは にほんの ことを、「やられたら やられぞん」の しゃかい だと おもっている ことが ある。ぼくは にほんの ことを、なきねいりが あたりまえの ことと されている しゃかいだと おもっている。

きそ されたら ほぼ ゆうざい だし、じょうきょうしょうこが あれば しけい だし、たいほ されて いきなり かたく そうさで ぜんぶ もっていかれて しょうこいんめつの やりようが なくても つみを みとめない かぎり なんかげつも こうち されたり するし、かりに さいばんしょ で たたかって かっても、なんねんも やって すうじゅうまんえんとか まったく わりに あわないし、あいては べつに いたくも かゆくも ないし、さらには ひろゆき みたいな あいて だと いくら いっても いちえんも はらわないし。わ。

イジメに あっても いじめられてる ほうにも げんいんが ある とか いわれるし、しごと がえりに ひがいに あっても そんな じかんに そんな ところを あるいていた ほうにも もんだいが あった てきな ことを しゃせつに かかれたりするし、りゆうも いえない りゆうで すべての しごとを ほされた あげく なにに ついて しゃざい しているのかも いえずに ないて しゃざいかいけん させられたり。

そもそも さいばんざた なんて ことばも あるくらい だし、じぶんの せいぎの ために あらそっても あらそってる こと じたいが さも わるいことで あるかのように みなされるし、なんの たたかい だろうと かかわらない ほうが ぜったいに とくだ ってのが にほんでは もっとも プラクティカルな こと だと おもうし。

ほんと、どうしろ っていうの。これじゃ、とくめい で ひっそり いきる いがい、やりよう ないじゃん。ゎ。

って、だから みんな とくめい でしか なにかを かけない わけ だけれどさ。いいがかりとか きちがいたちの リンチに なきねいりする ひつようが ないと しんじられる なら、とくめいで かく りゆうは せきにんの ほうきと こくはつ だけ だよね :p

まあ、それは ともかく。

いやだと おもってたら、がまんして にほんで くらす ひつようは ないと おもう。

いろいろと じじょうも あるだろうし、もちろん、だれでもが ガイコクに たかとびできる わけじゃ ないだろう けれど、できる ひとは してみると いいと おもう。そとから みて はじめて よく みえる という ことも とうぜん おおいし、にほんを よく したいと おもっている パトリオットにも、おもってない ヒコクミンにも おすすめ。

あと、これは だそく だけれど、もっとも じゅうような ポイントとして、ガイコクへの とうぼうは じょせいには とくに おすすめだ。とくに ざんねんながら びぼうに めぐまれなかった ひとや、わかさ という にほんで もっとも じゅうし されている ぶきを うしなった じょせいは、にほんなんて さっさと すてたほうが いいと おもう。わ。

うれのこりの じょせいは、たとえば アメリカに きて、だいがく 1ねん から すべて やりなおす という ことが よゆうで できるし、みためも こどもに しか みえないし、どうせ ケトウには にほんてきに ぶさいくか どうかは ぜんぜん わからないし、すいじせんたくの しんぱいとか しなくても いいし。わ。

まあ、にげる なんて ひきょうだ、と おもう きこつ ある だんしたちは おくにの ために がんがって くれれば いいけれど、じぶんの こと よりも しゃかいの ことを ゆうせんする やつ(わかもの と せいじか を のぞく)の いう こと は、ぼくは しんよう できない。しゃかいの ため ではなく、じぶんの ために こそ、「にげる なんて とんでもない。アメリカ なんて さいていだ。わたなべちか なんて しねば いいのに」って いってる ひと たち の いう ことは わからないでも ない。しねば いいけど。わ