2009年5月10日日曜日

しごとだから なんなのか


せんじつの JTPA の カンファレンス でも はなしに のぼったことだけれど、アメリカの はたらきかた と くらべて、にほんの はたらきかたは いじょうに せいしんろんてき で、とにかく むりにでも どりょくで かいけつ しようと する けいこうがあり、それでいて きゅうよも すくなくて やってられない、という いけんが ある。ぼくも そう おもう。

にほんの おおてメーカ きんむで ばしゃうまの ように はたらいて さくしゅされている エンジニアたちは、おなじ レベルの しごとを ふつうに ていじで やって、それでいて ばいほどの きゅうりょうを もらっている こっちの エンジニアの げんじつを しったほうが いい。

でも、こっちだと くじごじ で はたらけるとか、そんなことは じつは たいした もんだい じゃあない。

それに、たとえば スタートアップで ようきゅうされる しごとりょう というのは、アメリカ でも にほんでも まったく ちがいがない。

ぼくは、きぎょうするために アメリカに きたけれど、その スタートアップ では、まいにち 12じ すぎまで はたらいていたし、てつやも しょっちゅうしたし、そんな せいかつを 4ねんくらい つづけた。じぶんで はじめた かいしゃだから というもの あるけれど、いっしょに はたらいてた れんちゅうも みんな、しぬほど はたらいていたし、そういう じきというか タイミング というのは あるし、スタートアップ なんて、そんなもんだ。

ちなみに、りこんされなかったのは、ひとえに 老婆が ぼくを できあい しているからだ という りかいだけれど、あのときに ぼくを みすてないで いてくれたことの おんは いっしょうかけて かえしたいと おもっている。って、それは どうでもいいか。

というわけで、しごとの りょうは、アメリカか にほんか という もんだいではない。しごとに よる。だから、こっちのほうが いいよ、というのは、すくない しごとで もっと かせるげるとか、そういうことじゃない。

もんだいは、「しごと」の ゆうせんじゅんい だ。

にほんでは「しごとだから」という じゅもんが、あらゆることの めんざいふ として つかわれている。「しごと」が すべてに ゆうせんする のだ。

こどもとの やくそくだって、ゆうじんとの やくそくだって「しごとだから」といえば、なんでも ほごに できる。しごといがいの やくそくは ぜんぶ だ。

じゅぎょうさんかん だって、しごとが はいったら いけなくても ぜんぜん しかたがないし、さいばんいんに しょうかんされても、サーバ かんりしてたら しかたがない。

なんで こんなに しごとが いちばん だいじなんだろう。おかしいと きづかないのかね。きづいてるけど しかたがないのかね。それは きづいてないってことと なにがちがうのかね。

かぞく>ともだち>しゅみ>しごと、くらいの じゅんばんが バランス とれてると ぼくは おもうし、どうい してくれる ひとも おおいと おもうけれど、にほんでは、しごと>>>こえられない かべ>>>しゅみ>ともだち>>かぞく、くらい じゃないだろうか。

ほんと、しごとだから、なんなんだろう。

へいじつの ひるすぎに むすめの ようちえん の Dad's Day に さんかすることが、「しごとだから」という いみふめいな りゆうで できないなんて、ほんとうに くだらないし、そんな しゃかいは ほろんでよし。

って おもわないのかな。おもわないから こうなんだろうね。

2009年5月7日木曜日

よみにくい のは だれか


ひらがな だけの ぶんしょうは、よみにくすぎて たまらない。さいきん、よく いわれる。

ひらがなせいかつ を はじめてから だいぶ たっていて かなり めが なれたし、しんりてきな ていこうも まったく なくなった ぼく ですら、よみやすさの ひかくをすれば、あっとうてきに かなかんじまじりぶん (いか、よくつかうのに ながくて よみにくいので、かかまぶん と よぶことにします。わわ) の ほうが よみやすいと かんじるのだから、さいしょから うけいれる きが まったくない ひとたちが、そう いいたくなる きもちは 120% りかいできる。

すこし あたまの おかしい ぼくだけが こういう はためいわくな ことを かってに やるのなら まだしも、なにか しんえんな いとがあるに ちがいないと かんちがいした おひとよしたちが こんなくだらないことを まねしはじめては たまらないと、ないしん やきもきしている ひとも いるかも しれない。

でも、ひらがな だけで わかちがき されている こういう ぶんしょうを よめない ひとと、ふつうの かかまぶんを よめない ひとと では、どうかんがえても こうしゃの ほうが たくさん いると おもうので、ひらがなだけだと よみにくいと いっている ひとの りくつは、いわゆる 「強者の論理」じゃないのだろうか、という ぎねんが ぼくには ぬぐえない。

ぼくは つごうのいい ぎぜんしゃ なので、きづかないうちに おまえは じゃくしゃを むししているのだと、ひと(=じぶん)に いわれたら、ちょっと きずつく。しってて やっていることなら、いくら ひと(=じぶん)に してきされても「ええ そうですが なにか」と ひらきなおれる のだ けれど。

ぼくは これまで、かんじが よめない ばかは なにも よまなければいいと おもってきた。わいせつ という たんごを わざわざ ひらがなで かくなんて、ばかも やすみやすみ いえ、と おもってきた。じぶんが おおくの かんじを すらすら よめる からだろう、もんだいいしきは ほとんど なかったし、なんなら かんじを つかうべき りゆうを たくさん ひねりだして、かんじぼくめつうんどうの ねを たやしておくか、くらいの かんかく だった。

でも、ぼくが かいている ことを、こどもたちが きょうみぶかそうに ながめつつも ほとんど よめない という げんじつを みて、なんのために よめなくする ひつようが あるのだろうか、と おもうようになった。ひらがなで かけば、すくなくとも よめるし、よもうとするのに。

おとなというのは ほんとうは じぶんかってで とんでもなく ばかだ、ということが ばれてしまっては たいへんだから、あえて よませないために そうしよう、というのならば すじは とおる。でも、そんな いとは ないのだとしたら、ぜんぶ ひらがなで かいてあげて、だれでも よめるように したらいいんじゃないのだろうか。

もちろん ひらがなで かかれていれば こどもでも すべて りかいできる ということには ならない。この ブログに ぼくが かいている ていどの ないよう ですら、ぼくの こどもたちが りかい できるように なるまでには、まだまだ なんねんも かかる。

でも、よめさえすれば よもうと するかも しれないし(じっさい、よもうとして、「ぶんしょう」って、なあに?みたいに たくさん きいてくる)、よめさえすれば、じしょも ひける。

かかまぶんを よむためには、かんわじてん(もしくは けいさんき) が ひつよう だが、かんわじてんを ひくのは、おとなでも かなり めんどうくさいし、そこまで して よまないと いけないと いわれたら、だれも よまない。にほんを けんきゅうしている ひとや、ジャパンで くらしてみようと おもうくらいの すいきょう なら いざしらず。

また、ふつうの かかまぶんは、めが みえない ひとや、おとが きこえない ひとには、とても むずかしい。てんじは きほんてきに かな しか ないし、つかっている かんじを せつめいを しながらじゃないと いみが わからない ような どうおんいぎごが たくさんつかわれている ぶんしょうは、おとだけ きいても りかいするのは とても むずかしい。

ひらがな だけで ぶんしょうを かくためには、つかうことばを えらぶ ひつようが あるけれど、そうすることで、てんじ にしても テキストスピーチ にしても、そういうものの ほじょが ひつような ひとたちにも あつかいやすい ぶんしょうになるし、こどもや ガイジン にも よみやすい ぶんしょうになる。

こじんこじんが そんな ことを するよりも、すべて けいさんきで じどうてきに わかちがきと かなへんかん できるようにしたほうが、すでに そんざいしている ぼうだいな ぶんしょを あつかえる ようになるのだから、どりょくするなら そっちのほうが こうりつが いい、という いけんは わかる。そのどりょくは つづけるべき だと おもうし、NLP (しぜんげんごしょり)の けんきゅうしゃの どりょくは むだだとは おもわない。

でも、いま かんたんに できることを、なにゆえ なんねんも さきに できたらいいな、という ひつようがあるのか わからない。

かかまぶんを すらすら よめない (げんざいは)ごくいちぶの (だけれど、しょうらいは だいぶぶんに なる かのうせいが ある)ひとたちの しんぱい なんて してられない。すなおに そう いいきれる ひとたちには、ぼくが どういう もんだいいしきの もちかたを しているかの せつめいは むずかしいけれど、かかまぶんを つかうべき りゆう として、たんに よみにくいから、というのは まったく せっとくりょくが ない。

おうだんほどうの しんごうが かわったときに おおきな おとで おんがくを ならすのは、しょうじき いって、うるさい だけだから やめてほしい。そういっているのと なにが ちがうのだろうか。

2009年5月3日日曜日

ひらがなでは いみが わからない


さきの 「ひらがなせいかつ への いざない」 に たいする しゅんぺーさん の コメント で、

あなたの文章は非常に簡潔に平易に書かれておりますので、ひらがなで読むことはさほど難しくありません
と かかれている ことは とても うれしい。

ぼくが ここに かいている ぶんしょうは、すべて ぼくが かんがえている ていどの ないよう なので、そもそも むずかしい ことでは ないし、その いけんを せいかくに つたえる ためには、とくに むずかしい たんごを ひつようと してない というのは じじつなの だけれど、それでも、ぼくは ちゅういして たんごを えらんで かいている。

つまり、なんどか よみなおして、なるべく かんたんな ぶんに なるように かきなおしている。どうおんいぎごが まぎれていないか ちゅうい しているし、かんじを みないと ぼくじしん よく いみが わからない たんごは すべて かきなおしている。まあ、スイコウ くらいは かいても いいけれど、あえて かかないように している。

つまり、みなれていない から すごく よみにくい というのは たしかに そう だけれど(わ)、がんばって よんでみても よく わからない、というような ことには ならないよう、けっこう きを つけています。

じつは「ひらがなせいかつ」には、ぶんしょうを もっと たんじゅんに かくべき ではないか、という いと も あります。

しかし、むずかしい ないようの はなしは こんな かんたんには いかないの かも しれない。

さきの コメントで いんよう されていた 脇圭平 の ほんやくぶんは、たしかに ひらがなで よむと、よく いみが わからないし、たとえば 江島健太郎 の Kenn's Clairvoyance の ような ブログは ひらがな だけで よんだら、さっぱり りかい できないと おもわれる。でも、これらの ぶんしょうは そもそも とても むずかしい ぶんしょうだし、いくら かんじで かいて あっても よく いみが わからないと おもう。ゎ

まあ、こういう ぶんしょうを すべて ひらがな だけで かくべきだ、とは ぼくも おもわない。ラテンごが よめる ひと ようの ぶんしょうは それ そうおうの ルールが あって しかるべき だと おもうし。

でも、むずかしい ないようを、かならずしも むずかしく かく ひつようは ないのでは ないか。

せんもんようごの ほんやくには いろいろと ルールが ある ので、たんじゅんに ぜんぶ ひらがなで かけば いい という もんだいには ならない けれど、たとえば 山形浩生の ほんやく など を よむにつけ、わかりやすく ほんやくする という ほうほうは あるのだなあ、と おもう。ほんやく いがい でも、かれの ぶんしょうは ほとんど ひらがな だけに しても、よめる きが する。とても シンプルで よみやすいし。

さて、平仮名を ひらがなと かいてしまっては ことばの ほんらいの いみ、ゆらいが わからない、という してきは まったく そのとおりだと おもいます。でも、だれも 「左様なら」とか「有り難う」なんて もう かきませんし、そう かくことを しらない ひとも すでに おおい と おもう。

それを なげく ひとも いるかも しれない けれど、これは こうとうきょういく、もしくは きょうようてきな はなしだと ぼくは おもう。ぼくらは とっくに こぶんが よめなく なっている けれど、なんの もんだいも ない。

かりに せいかつを ひらがな だけで いとなむように なっても、われわれが いま つかっている ていどの かんじの ちしきが インテリゲンチャには ひつようだと おもうし、それは かわらないのだろうと おもう。

でも、それを すべての ひとに しいるのは むだ じゃない だろうか。ふつうの ひとに とっては、かんじは あるていど よめさえ すれば いいだけの ことじゃないの だろうか。

うーん、どうおんいぎごの はなしも かこうかと おもったけれど、ながくなったので またに します。ゎ

にげるが かち

にほんが たちなおれるか どうかは ぼくには よく わからない。

わたなべちかの れいの エントリ を よんで、「でも、アメリカ だって、アメリカ だって、アメリカ だって、アメリカ だって」みたいな はんのうを している ようちな ひとたちに いいたいことも とくに ない。 

でも、にほんは とても すみにくい しゃかい だと ぼくは おもっていたし、いまも おもっているので、そう おもう ひとたちや かんじている ひとたちは、せっきょくてきに ガイコクに にげてみる ことを すすめたい。

うんよく にほんで うまれたの だから、てんしょくする くらいの きがるさで、きがるに ガイコク ぐらしを してみると いいと おもう。ただの ひっこし よりかは しきいが たかいかも しれない けれど、いちど やってみたら、そのくらいの しきいしか ないことが わかる。いなか から とかいに ひっこした ひとなら わかると おもうけれど、おなじくらいの はなしだと おもう。

さて、にほんが すみにくいと ぼくが おもっている りゆうは いろいろ あるけれど、じじと あわせて ひとつ かくと、ぼくは にほんの ことを、「やられたら やられぞん」の しゃかい だと おもっている ことが ある。ぼくは にほんの ことを、なきねいりが あたりまえの ことと されている しゃかいだと おもっている。

きそ されたら ほぼ ゆうざい だし、じょうきょうしょうこが あれば しけい だし、たいほ されて いきなり かたく そうさで ぜんぶ もっていかれて しょうこいんめつの やりようが なくても つみを みとめない かぎり なんかげつも こうち されたり するし、かりに さいばんしょ で たたかって かっても、なんねんも やって すうじゅうまんえんとか まったく わりに あわないし、あいては べつに いたくも かゆくも ないし、さらには ひろゆき みたいな あいて だと いくら いっても いちえんも はらわないし。わ。

イジメに あっても いじめられてる ほうにも げんいんが ある とか いわれるし、しごと がえりに ひがいに あっても そんな じかんに そんな ところを あるいていた ほうにも もんだいが あった てきな ことを しゃせつに かかれたりするし、りゆうも いえない りゆうで すべての しごとを ほされた あげく なにに ついて しゃざい しているのかも いえずに ないて しゃざいかいけん させられたり。

そもそも さいばんざた なんて ことばも あるくらい だし、じぶんの せいぎの ために あらそっても あらそってる こと じたいが さも わるいことで あるかのように みなされるし、なんの たたかい だろうと かかわらない ほうが ぜったいに とくだ ってのが にほんでは もっとも プラクティカルな こと だと おもうし。

ほんと、どうしろ っていうの。これじゃ、とくめい で ひっそり いきる いがい、やりよう ないじゃん。ゎ。

って、だから みんな とくめい でしか なにかを かけない わけ だけれどさ。いいがかりとか きちがいたちの リンチに なきねいりする ひつようが ないと しんじられる なら、とくめいで かく りゆうは せきにんの ほうきと こくはつ だけ だよね :p

まあ、それは ともかく。

いやだと おもってたら、がまんして にほんで くらす ひつようは ないと おもう。

いろいろと じじょうも あるだろうし、もちろん、だれでもが ガイコクに たかとびできる わけじゃ ないだろう けれど、できる ひとは してみると いいと おもう。そとから みて はじめて よく みえる という ことも とうぜん おおいし、にほんを よく したいと おもっている パトリオットにも、おもってない ヒコクミンにも おすすめ。

あと、これは だそく だけれど、もっとも じゅうような ポイントとして、ガイコクへの とうぼうは じょせいには とくに おすすめだ。とくに ざんねんながら びぼうに めぐまれなかった ひとや、わかさ という にほんで もっとも じゅうし されている ぶきを うしなった じょせいは、にほんなんて さっさと すてたほうが いいと おもう。わ。

うれのこりの じょせいは、たとえば アメリカに きて、だいがく 1ねん から すべて やりなおす という ことが よゆうで できるし、みためも こどもに しか みえないし、どうせ ケトウには にほんてきに ぶさいくか どうかは ぜんぜん わからないし、すいじせんたくの しんぱいとか しなくても いいし。わ。

まあ、にげる なんて ひきょうだ、と おもう きこつ ある だんしたちは おくにの ために がんがって くれれば いいけれど、じぶんの こと よりも しゃかいの ことを ゆうせんする やつ(わかもの と せいじか を のぞく)の いう こと は、ぼくは しんよう できない。しゃかいの ため ではなく、じぶんの ために こそ、「にげる なんて とんでもない。アメリカ なんて さいていだ。わたなべちか なんて しねば いいのに」って いってる ひと たち の いう ことは わからないでも ない。しねば いいけど。わ

2009年4月28日火曜日

かな漢字変換 は かなかんじせんたく


ひとつまえの エントリ では、なにゆえ ひらがなせいかつを すすめているのか わからないと、なんにんかの ゆうじんや ちじんから いわれたけれど、かいてないので それは とうぜん。ながくなるから、また あとで かくと かいた。かいたけど、なかなか かけずに ごめんなさい。

じつは、ぼくの なかでも けつろんが かんぜんに でている という わけでは ないし、また、すぐに でるとも おもえないので、いまも、なぜ そんなことを するのかと、じもんじとう しつづけて いたりします、はい。わ。

かんじを すてることの へいがいは、ぼくでも いろいろと おもいつくし、かんじを すてる ことは まちがっていると ちょっかんする ひとや、せきずいはんしゃてきに はんろんする ひとは、そのあたりは とくに いろいろと おもいつくの だろう。まあ、ぼくが おもいつく レベルの もんだいてんは、あとで はんろんを かいていこうと おもうけれど、そうてい される はんたい いけん への はんろんの まえに、まず、ひらがなせいかつの ぼくなりの motive を すこし ずつ かいていきます。

まず、だいいちの どうきは、ただしい かんじに へんかん するのが、いいかげん しぬほど めんどうくさい、ということ です。わわ。

あたりまえに やっている みなさんは、しぬほど めんどうなことを しているとは きづいてないかも しれないけれど、へんかんこうほ から ただしい かんじを せんたく しながら かいてるのは まちがい ありません。カナかんじへんかん きのうが ひょうじする こうほ から、まいかい せんたく してるのです。いみを つたえるために つかう ことばを えらぶのみ ならず、ただしく あてはまる かんじをも せんたく しないと いけない。

かんじを つかっている へいがいだと おもうけれど、にほんごには どうおんいぎごが おおすぎるので、どの かんじが ただしい かんじ なのか しらべながら かく わけ ですが、これは めんどうくさいと おもうし、わざわざ くろう するために かんじを つかっていると しか おもえない。じぎゃく だいすきの にほんじんには とても あっている、と いわれると なっとく しそう だけれど。ゎ。

いまだに、ただ タイプ したら、じどうてきに ぜんぶ ただしい かんじに へんかんされる わけではない なんて、ほんとうに ばかばかしいけれど、それが できるなら、へんかんキー なんてものは いらない。よそくへんかんと よばれる べんりな きのうも あるけれど、あれでも けっきょくは せんたく しないと いけない。

ていうか、せんたく なんていう、めんどうくさい ことは したくないの です、ぼくは。そもそも、それが ただしい かんじか どうか なんて、どのくらい いみが ある ことなのか。

つまり、いくら カナかんじへんかん きのうが しんか しても、いまだに かんぜんには けいたいそかいせきも できないのだし、こんな どりょくは じつは どうでも よすぎるんじゃないか、と ぎねんを もちはじめた わけです。

もんだいを どりょくして かいけつするのは たいせつな ことだし、そのために けいさんきを うまく つかうべき なのだろう けれど、ほんとうに、それに あたいする ような もんだい なの だろうか。われわれは もじを はつめいする ずっと まえから、おとを つかって communicate している のだから、ほんとうは、すべて ひょうおん もじで かけば いいだけ なんじゃ ないの だろうか。

おとで かいたら、わかちがきする ひつようが でてくる けれど、そうする ほうが はるかに かんたん なのでは ないだろうか。わかちがきは どこで するか という もんだいが あるけれど、これは むかしの ラテンごも そうだったし、いまの かんこくごが そうである ように、じょじょに かいけつ できると おもう。おうべいごで あたりまえの ように つかわれている わかちがきは ひつようから はつめい された ひょうきほうほうで あって、ちゅうせい いこうに ふきゅうした らしい。にほんご では 21せいき の しょとうから じょじょに ふきゅう した、という ことに してみたら どうだろうか。

すべて ひらがなで わかちがき されて いたら、たとえば NLP の ひとは、にほんご Grammer Checker とか Spell Checker とかの けんきゅうに もっと ちゅうりょく できるのでは ないだろうか。って、これは ひらがなで なくとも いいね。わかちがき されてれば。

まあ、わかちがき なんて めんどうだ、という ひとも いるだろうが、すくく (SKK) を つかって ひらがな だけで かけば、わかちがきは まったく めんどうじゃない。へんかんして せんたくする よりも、はるかに かんたん なのは あたりまえ。

すんげー よみにくいって よく いわれる けれど、ただの なれ だと おもうし、ラッダイトの いうことを いちいち きいて られないし、ひらがな だけで かいても ぼくが かいている ないようは なんの かわりも ないので、わかろうと おもうなら、よめばいいし、わかりたくなければ よまなければ いい だけの ことだと おもう。わかりたくない けれど、しかたなく communicate する ひつようが できちゃった ひとは、ひとこと "English, please" って いってください。いじわるで ひらがなぶんを かいてる わけでは ないけれど、あいての ために ぼくも あゆみ よる よういは あります。

ひらがなぶん も English も いやだ、どうしても かなかんじまじりぶんで かいてくれ、という ひとは、えーと、ごめんなさい。ほかを あたって ください。orz

うーん、まだ、りゆう ひとつめ なのに、かなり ながい ねえ。。。って、ひらがな だけ だから だろうか。ゎゎ。

2009年4月18日土曜日

ひらがなせいかつ への いざない


いちぶの ゆうじんたちは よく しっていると おもうけれど、ここの ところ、ぼくは かんじを いっさい つかわずに せいかつする という じっけんを してみている。

で、やってみたら、おもっていた よりも やれそうな きが してきて だいぶ じしんが ついたので、とうとう ここに せんげん することに します。

「ひらがなせいかつ」を すいしんする (もしくは うざいことするなあ、しねばいいのに、なんてことを いちいち おもわないと きがすまない ひとたちの きもちを さかなで することなど、そもそも いっさい いに かいさずに、ほろびゆく ちほう げんごである にほんごの、せんねんごを ほんきで うれう、もしくは うれう ふりをする) プログラムに  さんか しませんか。

かけも よめも しない かんじ なんて、がくしゃに まかせて、こどもたちでも かんたんに よめる ひらがなで、もっと わかりやすく かくように しませんか。

この うんどうに さんかしたい ひとは、どうぞ かってに さんか してください。ばかだと おもうひとは、ばとうするなり むしするなり、おすきに どうぞ。

ちなみに、このうんどうは はじめた とうしょから かなりの かくどを もって、これは つづけたいと おもえて いたのだけれど、すぐに せんげんする ゆうきが もてなかった りゆうは いくつか あって、その ひとつは、いちぶの しようが あまくて、かくしんが もてない ぶぶんが あった、というものが あります。たとえば、カタカナや アラビアすうじや アルファベットの しようは ゆるすのか いなか という ぎろんが (ぼくのなかで) ありました。これは、また あとで かきます。

また、げんじょうでは ひらがな だけの ぶんしょが すくなすぎるため、けんさく エンジンが うまく あつかえないだろう という もんだいも あります。この エントリが けんさくされて よまれる かくりつは とても ひくいだろうから、けんさく されないところに いけんを かくのは もったいないと おもってる ぼくとしては、とても もったいないな という おもいは ある。

この うんどうの ほんとうの いぎが いつか りかいされて しゃかいが そういうほうこうに いく かくりつは、かがくよりも じょうちょを ゆうせんする という にほんらしさから かんがえて、ゼロ もしくは ゼロ くらいかと おもってるので、けんさく エンジンが うまく あつかえるように しんかする ことも ほとんど なさそう。(しかたないので、いわゆる 20% プロジェクトで やろうかな。うそ)

ちなみに、ひらがな しか かかないように していると、にほんごの サイトを けんさく するのは とても むずかしいのだけれど、さいわい にほんの グーグルの サイトに いけば、アルファベットだけ タイプしていても かんじへの へんかんを してくれるので、ほとんど せいかつに ししょうは ないし、そもそも にほんごの ぶんしょを けんさくする ひつようは あんまり ないので、だいじょうぶ。

あと、ひらがなに すると、ひつぜんてきに わかちがき しないと いけない わけ だけれど、わかちがきに かんしては、日本語を わかちがきする会 というのが あるみたいなので、そこの ほうしきに したがっていけば いいかな。まあ、たんご たんい ではなく、ぶんせつたんいの ほうが よみやすいね。えいごでも、あさごはんを break fast と わかちがきは しないし、after noon とも かかないし、むりに ChaSen/MeCab ごかんに する ひつようは ぜんぜん ないだろうと おもう。

ほかにも (いまは) かけない りゆうが あるけれど、それはそれ。わ

ちなみに、よみにくく なるだけ なのに、なぜ こんな わけのわからないことを するのかというのは、ながくなるので、また かきます。わ。

あ、ぶんまつの わ というのは w つまり (笑) という いみですので おぼえておいて ください。あと、これは ドラフト だけど ゎ は (苦笑) という いみ です。ゎ

2009年2月15日日曜日

サルモネラとマリファナ


老婆に教えてもらって知ったのだけれど、ピーナッツバターにサルモネラ菌が入っていて何人も死んじゃって関連製品が軒並みリコールされるという、全米の一部を震撼させる事態が発生している。

本当に美味しいピーナッツバターというものがない極東の国の人々には想像もつかないことだろうが、PB&J という素晴らしく美味しいジャンクフードを子どものランチにもたせられなくなってどうしてくれるんだと全米のマミーが激怒しているし、セロリにピーナッツバターをつけて食べるのが好きなぼくにとっても、これはかなりの痛手だ。

この事件、じつは単なる事故ではなくて、工場の検査で過去にサルモネラが十回以上も見つかってるのに、そしらぬ顔で出荷していたことが発覚していて、ぼくは「どこの日本の話か」と思ったが、どうやらアメリカ人たちは「どこの中国の話か」と思っているらしい。まあ、アメリカでは、日本の偽装ブームの話はほとんど知られていないだろうから、当然か。

さて、日本だったら、とりあえず謝罪会見で社長以下三人が深々と頭をさげてフラッシュがたかれるという私刑がお約束だけれど、アメリカの場合は謝るとかそういうのはべつにどうでもいいので、謝罪会見というのはない。

そのかわり、公聴会やら裁判がつぎのニュースになって、最終的には実刑をくらって、みんな忘れる。というわけで、ニュースをてきとうにみてたら、あったあった。




なにが傑作って、問題の PCA って会社の社長のセリフが素晴らしい。

Mr. Chairman and members of the committee, on the advice of my counsel, I respectfully decline to answer your question based on the protection afforded to me under the United States Constitution.

慇懃に「黙秘権を行使します」って、なにを聞かれてもオーム返しのようにこれしか言わない。ぜんぜん悪びれない。反省のいろなんてこれっぽっちもない。「何を聞いてもすべて黙秘ですか」「はい」って。やじとかもなくて、たんたんと。アメリカちっくで素晴らしすぎる。

いざという時のために、このセリフはよどみなく言えるように練習しておきたい。

さて、アメリカらしいと言えば、以下の動画もかなりアメリカを感じさせてくれるのでおすすめだ。




要するに、ピーナッツの中にはドブネズミとかゴキブリもいたっていう、元従業員の衝撃的証言なんだけれど、内容に関しては極東の村国が何年も前に実現している程度の話なのでそれほど驚くに値しないかも知れないけれど、顔をだして声もそのままで証言というのは流石にアメリカンクオリティかな、と思う。しかも、全力で南部黒人なまりなので、字幕がなかったら何を言っているのか見当もつかない。ほんと、なんど聞いても、ぜんぜん分からない。

ちなみに、PCA のピーナッツバターを使っていて製品がリコールになっている会社はたくさんあるわけだが、そのひとつに、日本でも知られているケロッグ社がある。ここの話が最高にアメリカらしいので紹介したい。

というのも、ケロッグ社は最近、マリファナを吸ったことがバレて謹慎をくらっている五輪水泳の金メダリスト、マイケル・フェルプスをケロッグのシリアルの広告キャラクターからはずしたと発表したのだけれど、それについての抗議が殺到。ケロッグ社に対する電話相談窓口では、リコール対象の商品に関する質問の何倍も、マイケル・フェルプス外しへの抗議が多くて、不買活動にまで発展しているという。ぜひ Kellogg Customers More Concerned With Phelps Than Tainted Peanut Butter という記事を読んでみましょう。

まあ、オバマ大統領だって若いころには吸ったことがあるって告白してるくらいだしね。「サルモネラでリコールなんて、どうでもいいんだ。マリファナを吸ったくらいで犯罪者扱いするんじゃねえ!!!」というのがアメリカの声らしい。前半はともかく、後半はぼくも同意。

2009年2月10日火曜日

寒空の下でめしを食べる愉しみ

以前は、どちらかというと外で食事をすると言うのは好きではなかった。外でというのは、カフェなどの軒先でという意味であって、外食ということではなく。

風のまったくない快晴の気持ちいい日はともかく、ちょっと風があったり、肌寒かったりしたら、外で食べたい理由はまったく分からなかった。というか、いまでも分からない。

でも、アメリカ人は外で食べることが好きなようだ。外で食べている人は多いし、友人と飯に行くと、積極的に外で食べようとするので、外で食べることにとても慣れた。

最近の東京では、外にもテーブルが置いてあるような欧米かぶれのカフェやレストランも増えたと思われるので、昔と比べればだいぶ一般的になったのだろうと思うけれど、それでも外で食べる方が好きだというひとはきっと少ないのだろうと想像している。そういう人から見れば、ぼく程度の人でも、たぶん積極的に外で食べようとする人に見えるんだろうと思う。そんなことはないんだけれど。

さて、今日は社内で一番新しい、人気の Big Table というカフェにランチに行った。社内のカフェが Yelp に載っているというのも凄い話だけれど、それはそれ。で、人気がありすぎていつも混雑しているのだけれど、今日は 9人の大所帯だったものだから、席がまったく見つけられずに右往左往した。

が、ほどなく空いてるテーブルを誰かが発見。みんなでそそくさと移動。当然のように、そこは外。

気温はたぶん、摂氏で 10度弱とかだったろうけれど、風がとても冷たくて、体感気温は 5度とか、そんな感じでしたかね。風邪どころか、肺炎になるっつの。いや、正真正銘の肺炎だっつの。

風を避けて建物よりの席に陣取ったもんだから、思いっきり日陰だったし、それでも、風はやっぱり感じるし、これは一体なんの我慢大会なのかと思うくらいに寒かった。

まったく、ガイジンどもは仕方ないなと、やおら、ぼくはフリースジャケットのジッパーを首までぜんりょくで締めて、熱いお茶をたくさん注いで戦かったけれど、循環器系が弱いとみえる女子の何人かはぜんりょくで革ジャンのジッパーを首まであげつつそれでもかなり寒そうにしていた。ひとりは、食事中も片手をポケットから出すことすらしないでいたくらい。

しかし、ひとりはなんと半袖の Tシャツというのもいたから、本当に笑えて仕方なかった。こいつ、どんな丈夫な小学生かと思ったけれど、よくみたら、二の腕に鳥肌立ちまくってる。でも、ぜんぜん、平気。しかも、いわゆる天才プログラマですごい仕組みをがんがん作って世界中の人を幸せにしている有名人。もうね(ry

まあ、そういうわけで、このパーティで吹雪のエルカピタンの絶壁にビバークしたら、最初に死ぬのは、やっぱり日本人のぼくなのかなあ、いや、寒がってる女子たちの方がだいぶ寒そうにしているから、ぼくはなんとか最下位にはならずに済そうだな、なんとか生き延びて、日本人もやれるってことを世に知らしめなくては、なんて思いながらランチを楽しんだ。

で、部屋に戻ってから、「さっきは、まじ、寒かったねえ」と言ったら、「寒かったねぇ」って、みんな言う。みんな、これは寒いって思ってるのに、同時に、まあ、いっか、とも思ってる。ぼくもそう思ってたんだけれど。抗生物質も飲んでるし、これくらいで肺炎こじらせて死ぬこたないだろ、と。

この感覚は、たぶん、日本の人には非常に分かりにくいと思うのだけれど、ポイントはこう。みんなでめし食ってるからといって、我慢の限界まで我慢しなくてもいい。寒くて死ぬなら、「ごめん、おれ、肺炎だから、中でめし食ってくるんだぜ」って言ってさっさと離脱すればいいだけの話。そこに躊躇とかそんなにいらない。さっさと撤退しても、寒がり日本人め、だから首相は漢字が読めないんだぜ、なんて誰も思わない。だれもなにも押し付けてないし、押し付けられてない。だから、みんなが、まあこのくらいなら我慢できるな、というところで勝手に我慢して均衡が保たれている。

というわけで、死ぬほど寒いのに外でランチを食いながら、これはレポートしておくかな、って思った。おすすめ。ないけどww